田辺 元

[史料を訪ねて]一覧

田辺元が晩年を過ごした別荘(現記念館)の書斎

田辺 元-群馬大学田辺文庫/北軽井沢田辺元記念館

公開日
2017/03/30
取材日
2009年~(群馬大学), 2016/06/18(記念館)

もう1つの『田辺文庫』と北軽の『田辺元記念館』

田辺元の史料を所蔵する『田辺文庫』は、2017年3月現在で2つ存在している。1つは京都大学大学院の『文学研究科図書館』内。そしてもう1つが、群馬大学総合情報メディアセンターの『中央図書館(荒牧キャンパス)』内だ。

田辺は1945年(昭和20年)に京都大学を定年退官した後、疎開を兼ねて、避暑のための別荘があった群馬県北軽井沢大学村に移住した。そのまま16年間この地で暮らし、脳軟化症(脳梗塞)のため群馬大学付属病院に入院。1962年(昭和37年)に亡くなった。田辺は妻に先立たれており、子どももいなかったことから、遺産はほとんど群馬大学に寄贈されている。そして膨大な蔵書に関しては、大島康正や西谷啓治、下村寅太郎といった弟子たちの相談によって、京都大学の『文学研究科図書館』に無いものが京大に寄贈され、それ以外の蔵書や原稿、日記、講義メモなどは群馬大学に寄贈された。これが、2つの『田辺文庫』が存在する理由である。

群馬大学総合情報メディアセンターの中央図書館にある田辺文庫

これと同時に、群馬大学には田辺が晩年住んでいた北軽井沢の別荘も寄贈されたが、現在は群馬大学の研修所、および『田辺元記念館』として運営されている。

初夏の緑がまぶしい田辺の旧別荘

ここでは群馬大学の『田辺文庫』と、北軽井沢の『田辺元記念館』について紹介する。

群馬大学の田辺文庫

まずは『田辺文庫』について。私が田辺の研究を始めて以来何度も訪ねているが、最初にこの『田辺文庫』を見た時には、あまりの史料の多さに「これを読み解くには、一生かかるかもしれない」と呆然となってしまった。図書・雑誌は約6000冊。さらに直筆の原稿や日記が膨大にある。

図書・雑誌は約6000冊と膨大な数

田辺はいろいろな手帳を日記代わりに使用しており、1年間に2~3冊分書いていた。その手帳だけで百何十冊も残っているのだ。中には、じつは妻の電話帳だった…という笑い話のような史料もあったのだが、とにかくかなりの数にのぼるため、群馬大学に何度も通った。

丁寧に分類整理された田辺史料

最初はプロに頼んで撮影していたものの、予算の関係で途中から自分で機材を持ち込み、写真を撮るように。そうして私 が足しげく通ううち、群馬大学の方でも史料価値を再評価してくれたらしい。目録などはきちんと作成されていたものの、初めて訪れた頃は手帳などは段ボール箱にひとまとめに並べられていたのだが、酸化を防ぐ中性紙を使った箱で1冊ずつ保存されるようになった。保存に関する予算が組まれたとのこと。回を重ねての訪問で先方の手を煩わせたと思うが、貴重な史料の保存に関しては貢献できたのではないかと密かに自負している。

専用の保管箱に入れられている史料

原稿に関しては、どういう内容なのかはあまり研究が進んでいない。私が注目しているのは、本として出版されている原稿よりも、いわゆる“講義メモ”である。哲学科の特殊講義のメモが数年分あるのだが、田辺はたいてい講義をおこなった後に論文を書いていたので、特殊講義のための走り書きを見ると、考え方がどのように発展していったのかが伺える。特に、田辺の思想で最も有名な『種の論理』が発表された1934年(昭和9年)の講義メモには興味が湧く。ただし独特の崩し字であり、縦書きになったり図が入っていたりもするため、非常に読みにくいのが難点である。

ほかにおもしろいものとしては、この(秘)と書かれた書類。

田辺先生(秘)書類

教え子たちの卒業論文や博士論文の評価が入っている。教授会で報告するための元原稿のようだ。この中に、キリスト教神学者・北森喜蔵の卒論の評価があった。田辺は最初、「こんな良い卒論はあり得ない」と90点以上をつけている。ところが、それを段階的に減点しているのだ。じつは京大文学部では、卒論に80点以上の高得点を付けることは滅多にない。おそらく田辺は初見で「素晴らしい」と思ったものの、なんとか慣例に合わせようとしたのではないだろうか。こうした記録が残っていて、非常に興味深い。

田辺元記念館

『田辺文庫』には前述のように何度も訪れていたのだが、一方『田辺元記念館』には足を向けたことがなかった。この『史料を訪ねて』を立ち上げ、今さらながら「そういえば、行っていない」ことに気付き、2016年6月、初めて北軽井沢の記念館を訪問した。

これは草軽電鉄(草軽電気鉄道)の『旧北軽井沢駅舎』。

草軽電鉄(草軽電気鉄道)の『旧北軽井沢駅舎』

元は“地蔵川停留所”という名称だったそうだ。1929年(昭和4年)に法政大学がこの地区に別荘地を開き、新築の駅舎を寄附。軽井沢の北側に位置することから『北軽井沢駅』と呼ばれるようになった。正面玄関は和洋折衷形式で、欄干には法政大学の頭文字“H”がデザイン装飾されている。日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』にこの駅舎が登場しており、2005年(平成17年)の改修を経て、2006年(平成18年)に国の有形文化財に登録された。

往時は大学教授や文化人などの別荘地として、現在は観光の場として、夏の間に人が集う地だが、冬の北軽井沢は北海道並みの寒さに包まれる。

爽やかな夏に賑わう北軽井沢

当時の組合の約束事で敷地だけは2,497㎡とかなり広いのだが、建物は非常に質素だから冬は相当厳しかっただろう。田辺の手帳に「万年筆のインクが凍った。この寒い中で物を書くのはつらい」という意味の記述があるほどだ。しかし田辺は戦争責任を感じていたと言われており、ほとんど隠遁的な生活を送っていた。文化勲章の授章式にさえ、赴くことはなかったという。

田辺の居間・書斎があった離れ

住まいは母屋のほかに平屋の離れがあり、この離れが田辺の居間・書斎だった。母屋は1973年(昭和48年)に取り壊され、新しい研修所が建てられている。田辺の書斎は『田辺元記念館』として保存されており、地元の方が群馬大からの委託で管理しているようだ。訪問した際も、その管理人の方に案内してもらった。

研修所に掲げられた由来を読むと、『田辺元記念館』となっている建物は、谷川徹三が設計したとある。在世当時を偲ぶため、できるだけそのまま保存するように配慮されているそうだ。

田辺に関する展示品

実際に田辺が使っていたものがそのまま置いてある書斎

書斎には文机があり、万年筆やブロッター(インクの吸い取り器)、鉛筆を削るためのナイフ、孫の手など、実際に田辺が使っていたものがそのまま置いてある。ここにあった蔵書のほとんどは『田辺文庫』に移されたはずだが、漆塗りの手箱のようなものを開けてみると、1冊の聖書が見つかった。田辺らしく、傍線やメモがたくさん書きこまれている。これも『田辺文庫』に移した方がいい史料かもしれない。

たくさんの書き込みがある田辺史料

ほかには、田辺夫妻の肖像写真、田辺の父親(開成中学校の校長を務めた、田辺新之助)らしき人物の写真、大きく立派なラジオ、旅行用の大きな鞄といった展示品も見られる。

田辺元と夫人千代の肖像写真

田辺の父親らしき人物の写真

その一角に、文化勲章の写真だけが残されていた。勲章は大島康正を通して群馬大学に寄贈されたと、群馬大の『田辺文庫』に記録が残っている。しかしその後、京都大学の『総合博物館』が取得。経緯は不明だが、勲章の現物は現在も同館にて保管されている。

この文化勲章の現物は京都大学総合博物館に保管されている

建物から外に出てみると、敷地の中に黒大理石の記念碑が建てられていた。田辺の有名な言葉「私の希求するところは真実の外にはない」が刻まれている。この精神に基づいて名付けた『求真会』という田辺哲学の研究会(事務局連絡先は、筑波大学の『伊藤益研究室内』)があり、記念碑の参詣や、機関誌『求真』の発行などを積極的におこなっているようだ。

黒大理石の記念碑「私の希求するところは真実の外にはない」

近年は田辺への再評価が高まり、注目されてきているのだが、田辺の研究者はそれほど多くない。しかしこれだけ多くの史料が残されているのだから、ぜひ活用していただきたいと願う。

本取材にご協力いただいた方

編集部一同、ご協力に心より感謝申し上げます。
群馬大学 総合情報メディアセンター 中央図書館/荒牧センター
群馬大学 北軽井沢研修所(田辺元記念館)


本探訪レポートは、訪問者 林 晋の口述を元にして、林監修のもとでライター高橋順子が原稿を作成しました。

谷川 徹三の
更なる史料情報求む。

京都学派の史料はまだその所在が把握されていないものが数多くあります。貴重な書簡、はがき、日記、蔵書、その他様々な所有物など、その貴重な価値を理解して大切に保存されている地方の博物館さんや個人での所有など、情報をお持ちでしたらぜひ当サイトに情報をおよせください。

お寄せ頂いた情報は内容調査のうえ、本サイト編集部が直接取材に伺いインタビュー依頼する場合もございます。