下村 寅太郎Torataro Shimomura

下村 寅太郎の肖像

下村寅太郎がその生涯において手がけた研究は、きわめて広範な領域にわたっている。ライプニッツ論や科学哲学、数学の哲学の分野で研究を開始し、レオナルド・ダ・ヴィンチ論を中心とするルネサンス研究、そして最晩年の『ブルクハルトの世界』(1983年)にいたる歴史哲学と、その広さは歴然としている。しかし、それらの研究はたがいに無関係になされたものではなく、「精神史」研究という下村独自の方法論によってつらぬかれていた。したがってかれの著作をひもとく際には、個々の分野にそくして下村の議論を追ってゆくだけではなく、つねに「精神史研究とはなにか」という問題を念頭において取り組むことが要求される。

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科学史の哲学・数理哲学

下村が科学哲学の分野で研究を開始した当時は新カント派の全盛期であり、科学についての哲学の主要な問題も、科学的な事実の超越論的基礎を解明するという、認識論上の問題が中心となっていた。日本におけるこうした関心からの研究としては、田辺元の『科学概論』(1918年)や下村の『自然哲学』(1939年)があげられる。 しかし、やがて下村は、科学の存在が自明な事実ではなく、科学の成立は近代ヨーロッパにおける「事件」であり、科学は歴史の内で成立したものであると考えるようになる。
下村はこのような立場から、『科学史の哲学』(1941年)においてギリシア数学の成立過程をあきらかにし、ヨーロッパの学の理念がどのように形成されてきたのかを考察する。 またつづく『無限論の形成と構造』(1944年)において近代数学の形成過程をたどり、純粋数学の成立が、近代における機械の形成と類比的に理解されることを示した。
下村は近代数学の思惟のありかたを「記号的思惟」と特徴づけているが、その形成過程をたどることは同時に「機械を作った精神」を理解することでもあった点にも留意すべきであるように思われる。

ルネサンス研究およびレオナルド・ダ・ヴィンチ論

下村は近代の記号的思惟が歴史的に形成されたものだと考えたが、このことはまた、記号による思惟とは異なった思惟がありうることをも示している。下村が、近代科学がまさに形成されつつあったルネサンスの時代を研究の対象に選んだのは、言語による思惟とは異なった思惟のありかたをルネサンスの芸術家の工房の内に見いだしたからであった。
こんにちの整備された科学的な知においては、自然現象は記号的表現をもつ普遍的な法則によって把握されると考えられているが、下村によると、近代科学は当初、言語のみにもとづくそれまでの哲学にたいするアンチテーゼとして登場した「新しい哲学」であった。新しい哲学である科学は、言語を用いた推論ではなく自然との対話であるところの実験を方法とする、きわめて実践的な学問であった。そして、近代科学の生成期においてはこうした実践的契機が重視され、実験の結果を法則として定立することは、すくなくとも中心的な関心事ではなかったと下村は考えた。
かれはこうしたルネサンスの思惟を典型的に体現する人物としてレオナルド・ダ・ヴィンチをとりあげる。下村の描き出すレオナルドにおいては、「科学者」「芸術家」「哲学者」という三つの側面が有機的につながっている。レオナルドは、科学的探求を通じて芸術制作をおこない、芸術制作を通じて哲学的思惟をおこなったと考えられており、この三つの側面を結びあわせるのが、実験や制作における実践的契機としての「力」であった。科学者であり画家であり哲学者であるレオナルドの研究を通じて下村がとらえようとしたのは、言語による思惟とは異なる、実践としての哲学的思惟のありかたであった。

歴史哲学・ブルクハルト研究

下村は近代の記号的思惟が歴史的に形成されたものだと考えたが、このことはまた、記号による思惟とは異なった下村が精神史研究において取り組んできたのは、普遍的とされた学的な思惟がじつは歴史的に形成されてきたものであることを解明すること、いわば思惟の歴史性の問題であった。そして下村が最後に研究の対象として選んだのが、歴史そのものであった。これは、かれの精神史研究の方法論的反省であると考えられよう。
ここで下村は、歴史学の認識論ではなく、歴史の中で思惟をおこなうことの意味と可能性を問題にする。かれは、師であった西田・田辺がともに「ロジシアン」であったのにたいして自身は「ヒストリアン」であると規定し、「哲学者はヒストリアンであることは不可能であるか」と自問する。そしてかれは、歴史哲学を否定しどのような哲学的理念を想定することも拒否したブルクハルトの思想の内に、あらたな歴史哲学の可能性を探し求めた。
ここに至って、広範な領域にわたる下村の研究を導いてきた核心となる問いがようやくそれとして問われることになったといってよいであろう。

下村 寅太郎 略歴

1902
8月17日京都市に生まれる。
第三高等学校を経て京都帝国大学文学部哲学科に入学。西田幾多郎、田辺元に師事する。ライプニッツ研究や、数学の哲学・科学哲学の分野で研究を開始する。
1943
6月から8月にわたって「野々宮朔」というペンネームで雑誌『知性』に「東郷平八郎」を連載。
1945
東京文理科大学教授となる。
1949
東京教育大学文学部教授となる。
1956
後年に思想の転機となったと語る、はじめてのヨーロッパ旅行に出る。以後、レオナルド・ダ・ヴィンチやアッシジの聖フランシス、スウェーデン女王クリスティナらの研究などを手がけ、ヨーロッパの「精神史研究」における業績を広げてゆく。
1983
畢生の大著『ブルクハルトの世界』を上梓する。
1995
死去(享年92歳)

京都大学文学部 日本哲学史専修Webサイトより

谷川 徹三の
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