西田幾多郎

[史料を訪ねて]一覧

金沢ふるさと偉人館の西田展示

西田幾多郎-金沢ふるさと偉人館

公開日
2017/03/30
取材日
2015/10/20

1通の手紙が生む展示のきっかけ

2015年10月20日(火)、日帰りで石川県へ出かけた。目的は、金沢市内の『金沢ふるさと偉人館』と、西田幾多郎の出身地である河北郡宇ノ気村(現かほく市)に建つ『西田幾多郎記念哲学館』を訪ねることにある。この項では、まず『金沢ふるさと偉人館』についてふれる。場所は金沢の観光の中心地。『兼六園』や『金沢21世紀美術館』にほど近い。ただし、大通りからは少し脇道に入るため、ひっそりとした趣がある。 もともとは《高峰譲吉》など5人の“ふるさと・金沢の偉人”を顕彰し、その生涯や業績を広く紹介する人物館として設立された。館長の輪島道友さんやキュレーターの増山仁さんによれば、おもに地元の学校の子どもたちが、社会科見学などで訪れることが多いそう。「金沢からこんなに偉い人たちが出たんだよ」ということを分かりやすく伝える意図があるらしい。

金沢ふるさと偉人館の外観

西田幾多郎の出身地は、金沢ではない。しかし、金沢大学(旧制第四高等学校)で教鞭を取っていた経歴があり、また来館者から「西田幾多郎は紹介しないのですか」と尋ねられたこともあったようで、後年、西田を含む「金沢ゆかりの近代日本を支えた偉人たち」数名が加わって常設展示されるようになった。

2階の常設展の一角、「明治三年の奇跡」という展示ゾーンへ。明治3年に生まれた偉人として、《鈴木大拙》《藤岡作太郎》とともに西田の史料が展示されている。ちなみに大拙は西田の大親友であり、本名を貞太郎という。第四高等中学校の同窓生である貞太郎・幾多郎・作太郎は、“加賀の三太郎”と称された。

明治三年の奇跡

さて西田の史料の1つとして、やはり金沢が生んだ偉人《木村栄》へ宛てた手紙が、掛け軸で展示されている。これは西田が文化勲章を受章した際に、西田に祝詞を送った木村への礼状のようだ。ちなみに、木村も明治3年生まれで西田の学友だが、彼の史料は同館の「日本近代科学の創始者たち」のゾーンで展示されている。そして木村の展示コーナーでは、前述の掛け軸とは別に、西田から(木村が亡くなった後)木村の家に宛てた手紙が1通、平置きで紹介されている。

西田幾多郎が木村栄へ宛てた手紙

西田から(木村が亡くなった後)木村の家に宛てた手紙

おそらく、木村栄にまつわる史料として展示していたこの平置きの1通が、「西田は紹介しないのか」という問い合わせにつながったのではないだろうか。この時代の人々は、現在のメールと同じ感覚で手紙やはがきをよく書いた。それに加えて、西田は文人として図らずも有名になってしまった経緯があり、人に乞われてじつに多くの書を贈っている。さらに、決してうまいとは言えないが非常に味わいのある和歌も数多く残した。
こうした西田の書や手紙は、膨大な数にのぼる。それが一般の家の奥深くに眠っていて、何かの拍子に、郷土の小さな資料館などに寄贈・寄託されることがある。『金沢ふるさと偉人館』は、そのベストプラクティスと言えるだろう。手紙の他には、西田の号「寸心」が入った扁額や五言絶句の書も展示されていた。

西田の展示コーナー

金沢の偉人たちの交流がわかる年表

キュレーターの増山さんは、数ある金沢の博物館の中で「仕事ができる」ことで有名な方だと、他のキュレーターから聞いた。収蔵物や展示物についてすべて把握されているようで「西田幾多郎の史料は、こことここにあります」と的確に案内してくださった。木村の展示コーナーに、西田の手紙があることを教えてくださったのも増山さんである。館長の輪島さんとは、西田の史料というより哲学のことで話が弾んだ。 『金沢ふるさと偉人館』の滞在は1時間ほど。続いて、かほく市の『西田幾多郎記念哲学館』へ向かう。

キュレーターの増山 仁さん

取材にご協力いただいた方

編集部一同、ご協力に心より感謝申し上げます。
金沢ふるさと偉人館 公式サイト

  • 輪島 道友様

    金沢ふるさと偉人館 館長

  • 増山 仁様

    増山 仁様
    金沢ふるさと偉人館 学芸員


本探訪レポートは、訪問者 林 晋の口述を元にして、林監修のもとでライター高橋順子が原稿を作成しました。

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